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職業人の「うつ病」と生活リズム

関東中央病院 メンタルヘルスセンター長
松浪克文

職場で毎日の業務に追われている職業人の場合には、うつ病発症の最初の徴候、あるいは発症直前の変化が「抑うつ感」や「やる気を失う」などの情緒面の変化よりも、行動面に現れていることがあります。たとえば、「机の上が以前にも増して雑然としている」「会議の資料などをよく紛失する」「朝出勤してすぐには仕事にとり掛かれない」「2時間も仕事をすると疲れが出て根気が続かない」・・・などの些細な仕事ぶりの変化です。もちろん、このような行動面の変化のすべてがうつ病性のもの、というわけではありませんが、うつ病に罹患した職業人のお話を聞くと、「これはおかしい」と自覚する前の段階で、このような変化があったことを思い出す方が多いのです。

うつ病の場合、この変化の本質は行動や感情の動きが「遅くなる」ことにあり、この「遅れ」が当人の集中力欠如や意欲低下、易疲労性を引き起こしてしまいます。このように万事につけての「遅れてしまう」ことをうつ病の「制止症状」と言います。注意していただきたいのは、「集中をしていないから」あるいは「やる気を引き出していないから」仕事が遅れたのだ、という理解は、原因と結果を取り違えており、うつ病の場合には正しくない、という点です。

とはいえ、多忙な職業人がみなさんうつ病に罹患するわけではありませんから、多くの場合は、運よく休日が挟まり休養がとれた/上司に窮状を話して仕事量が減った/仲間が援助してくれた/どうにかこうにか仕事が一段落した/風邪などの身体疾患になり数日休んだ・・・などの偶然の救済が訪れて、発症は免れることになるのだと思います。しかし、そのような偶然に恵まれることがないまま「遅れ」が累積して仕事の負担が重くなってくると、「業務の報告が遅いと叱責された」「異動後の仕事の変化になかなか慣れずに失敗を重ねる」「周囲のコミュニケーションから取り残されてしまう」などのややはっきりした業務の遅滞、適応・順応上の支障が出てきます。しかし、多くの職業人は、この段階に至ってもまだ、これらを自分の能力の問題や仕事上の困難としてとらえがちで、自分の精神の変調によるものかもしれないと考えてみる人は少ないと思います。さらに事態が深刻になり、「どの課題も期日までに終わらない」「ミスを連発する」「残業時間が長すぎる」・・・などのはっきりとした窮状や具体的問題として顕在化すると、「遅れ」を解消しようという焦燥感や、「遅れ」に対する罪悪感とともに、自分を叱咤しても意欲がわき出てこない、このまま業務を続けられないのではないかと不安になる、などの情緒面の苦しさを感じ、ようやく、「なにかおかしい」という違和感を抱くようになります。このときにはすでに、歩く、食べる、話す、字を書くなどの日常の基礎的行動も遅くなっており、また、睡眠、食欲などの基本的な欲望も希薄化して、日常生活全般にわたって生活行動のリズムが乱れています。重要なことは、上述したように、そもそもの始まりの仕事ぶりのレベルでの「遅れ」自体が潜在発症であり、その後に、顕在化する症状を懸命の努力や仕事のやり方の工夫、態度変更や考え方を入れ替える、などの方法ではもはや防ぐことが難しい、ということです。

このように、「うつ病」とは精神の活動が遅くなり、職業上、生活上の行動のリズム的運動が失われてしまう病気なのですが、ごく初期に変調に気づいて適切な対処(薬物療法と生活指導によって睡眠と食事を規則正しくする)を行うだけで、本格的な発症を防ぐことができます。

ところで、うつ病から十分に脱して快適な生活に戻るためには知っておくべき生活リズムについての人間に特有な生理学的事情があるのですが、一般にはあまり知られていません。それは、人間は時間を気にせず過ごしていると一日約25時間で周期するという事実です。われわれはみな一日が24時間では「時間が足りない」のです。昼食、夕食、就寝などの際に「もうお昼か、お腹すいていないなー」「もう寝る時間か。まだ眠くいないけどな・・」と感じる方は多いと思いますが、これは胃が弱っているからでもなく、夜更かし癖があるせいでもなく、事実、「まだ早い」からなのです。現実には、ほとんどの方がこの「早さ」を強く感じずに、ほぼ規則正しい生活リズムをキープしておられると思います。これを可能にしてくれるのが、我々の生活習慣です。われわれはみな生活行動パターンの中に、朝食、昼食、夕食にそれぞれに特有の雰囲気、状況を形成しており、それに誘導されて、「ちょっとまだ早い」と感じながらもその時刻に合った生活行動を難なくこなせるのです。まだお腹はすいていないと感じていても結局は昼ご飯を食べてしまうのは、同僚がお昼に誘ってくれたり、お昼のチャイムが鳴って周りが昼休みの雰囲気になったりするからです。寝るにはまだ早いと思っても決まった時間に床に就くのは、特定のテレビ番組が終わったときに寝る支度をする習慣があるからです。一日の折々の時間帯に合わせた習慣的行動の様式がその時間帯にするべき行動を促してくれているのです。このような行動様式は文化的に、歴史的に、個人史を通じて形成されてきたもの、すなわち人生を通じて陶冶されてきたものですが、「うつ病」になるとこのような個人の文化的行動様式が失われ、リズムを促すさまざまな刺激がなくなってしまいます。

この意味で、生活リズムの維持はうつ病が治癒するためには不可欠な要件といえるでしょう。ただし、うつ病治療に際して、事実として、食事や睡眠を規則正しくとっているというだけでは十分ではありません。というのは、行動の規則的な繰り返しだけなら、それは「周期」というべきで「リズム」とはいえないからです。リズムを体験するには「周期」に「快適さ」が付け加わらなくてはなりません。つまり、なんらかの快適な行動を求める気持ちがあり、それが期待通りに定刻に訪れ、それを満喫すると、次の快適な行動を期待する心の状態になるという循環がなければ「リズム」を体験できません。「リズム」感を持って生活するためには、睡眠や摂食をまだ早いけどしようがないと思って行うのでなく、それを楽しみにして、それを求め、それをめがけて、それまでの行動(仕事など)に励み、そして事実、期待通り、定刻に願望充足に到達するという運動がなくてはなりません。食事や睡眠が快適であることは、リズムを形成するために必要なことなのです。うつ病では睡眠障害や食欲不振が必発ですので、まずこれらの症状を解消しなくてはうつ病の治癒はあり得ません。

しかし、この快適な「リズム」は食事や睡眠だけで形作られるものではありません。本来は、食事、睡眠以外の一日の生活行動の中にも、楽しみに待つような要素が含まれていなければならないからです。午前10時や午後3時にティータイムを設けているのも一つの工夫ですし、また、本来は、仕事の内容自体に楽しいイベントが含まれていることが望まれます。さらには、リズムというのは、一日単位のことだけを言うのではありません。一週間単位、1か月単位、四季、一年とわれわれ人間の文化は出来事の移り変わりをなんらかの周期で捕らえていますから、これらの周期性についてもその変化をむしろこちらから追い求める、楽しみにするという心理がないと、1年を通じた快適なリズムに乗った生活を送ることにはなりません。とくに季節性の変化に後れをとる傾向のある、うつ病準備性の高い人にはこのことが重要です。

そこで、わたくしは、生活にリズム感を生み出すことを可能にする人間の行動を「遊び」的行動と名づけて、臨床場面で用いるようにしています。趣味を作り出す、というと存外に難しい課題に思われがちです。必要なのは、日常生活のルーティーンの行動や職業的行動とは性質の異なる行動に楽しみを見出し、一日、一週、一か月、一年の行動スケジュールの中に組み込むことです。「遊び的行動」を見出すためには、「ふだんとは違う筋肉を使う」という発想で、アイデンティティが変わるような活動領域を探し出すように、と助言しています。ごく短時間の些細な楽しみでよいと思います。「遊び」的行動を予定していてそれを楽しみにする、という生活の動きをデザインすることが必要なのです。その楽しみの予期が生活リズムを作っていくのだと思います。